日本に欧州産(英国あるいは仏国など)のガンフリントが輸入されたかどうか知りたいのですが、どのような資料にあたればよいでしょうか。
日本産のいわゆる火打石は良質のメノウや玉髄などが江戸時代に日常的に使われたようですが、フリントロック式の銃自体は普及するに至らなかったと聞いています。
それでも多少の輸入品や国産品があったのではないかと思うのですが、火打石として欧州産のフリントが輸入された形跡があるかどうか、あれば現在どのような形で資料として残されているか知りたいと思います。
海外では「火縄→フリントロック→メタルカートリッジ」と発展しましたが、日本は幕府による鎖国と実質的な銃規制により、「火縄→メタルカートリッジ」と発展した世界でも稀な歴史があります。鎖国中の日本人は新しい銃を生み出そうとはせず、その代わりに火縄の扱いをきわめていたので、メタルカートリッジが流入したあとでは、(主要な武器として)フリントロックに興味を示すことはほとんどなかったと思われます。
生憎、国内でのフリントロック事情を詳しく記した資料を私は持ち合わせていないのですが、「世界銃砲史/岩堂憲人」には以下の興味深い記述がありました。
ところで「カロンの日記」には、別に、短いが注目すべき記述がある。それは10月31日の項で、カロンが平戸商館の取り壊しを命ぜられる数日前のことである。この日、カロンは長崎に上使井上筑後守政重が到着したことを知り、歓迎のために謁見したが、その席で筑後守は2年前に前任のクーケバッケルに注文した火縄銃とフリントロック・ピストル(火打石を発火に使用する拳銃)がどうなったかをたずねている。
ヨーロッパにおいて、銃が火縄式からフリント、つまり燧石(火打石)に発火機構が進歩していく過程については、別の項でとりあげるが、この頃、ヨーロッパでは火縄銃はすでに旧式化しており、井上筑後守はそのことを知って新型の銃を注文していたのであった。
(中略)
和銃がこのような形態のままであったことには、たしかに鎖国や長期の和平が影響はしていよう。しかし、それらは決定的な要因ではなかったはずである。なぜなら、燧石式の銃がまだヨーロッパにおいても新式の銃として出現してそれほど時間のたっていないこの時期に、幕府の要人は、すでにそれをオランダ人に注文している(カロンによれば紀州候徳川頼宣も同式銃と手榴弾の注文をしているという)のであってみれば、幕府もこの種の銃に対してやはり強い関心を持っていたと考えるのが妥当である。したがって、筆者としては和銃が火縄式のままで幕末まで推移していったということの裏には、幕府の意図が感じられる。それはいうまでもなく、新しく威力の兵器の国内流布への拒否反応により、意図して火縄銃のままにおかれたのであろう、ということである。
カロンが日本を去りバタビアに帰った後、1641年の秋に、おそらくカロンの進言によったものであると思われるが、臼砲2門、青銅野砲2門のほか、砲弾鋳造型、ピストル、火縄銃、燧石銃、攻城地雷、火薬庫用カンテラなどが送られてきた。この当時の商館長はヤン・ファン・エルセラクで、彼はそれらの火器を同年末、他の献上品と一緒に持って江戸に向かったのだが、このときの火器に対する幕府の反応は、明らかに大きな変化をみせている。これらの火器について、幕府はそれらを大阪まででとめおき、別命あるまで城内に保管しておくよう命じ、エルセラクは大阪町奉行の預証だけを持って江戸に来たのである。
カロン=フランソワ・カロン平戸オランダ商館長
もしかしたら、(私はまだ読んでいませんが)平戸オランダ商館日記のような当時の資料を翻訳した本にはこのような関連した記述があるかもしれませんね。
最後までお読みいただきありがとうございます。
もしご質問やご意見がありましたら、お気軽にX(旧ツイッター)やYoutubeチャンネルでお知らせください。