様々な説がありますが、私は岩堂兼人著「世界銃砲史」の9章でも語られている「封建制度下の影響」という説が有力ではないかと思います。
銃床はクロスボウの時代から使用されていましたが、ヨーロッパでは15世紀中ごろには普及しています。
16世紀にポルトガル人によって種子島に鉄砲が伝来したとき、ヨーロッパでは銃床が使用されていましたが、東南アジアではまだ銃床の無い「頬付け型」を利用しており、種子島に伝来した鉄砲は東南アジアか中国で製造された可能性が高いと見られています。
そして17世紀に海外ではフリントロック式が普及したものの、日本では頬付け型のマッチロック(火縄式)を使い続けました。
当時、幕府は諸大名が力を持つことを恐れており、新しい技術や思想を規制しています。
大きな橋を架ける、菓子を工夫する、乗り物に車輪を使用する・・・といった技術を規制し、当然ながら新しい銃を発明すれば逮捕される可能性がありました。
また1637年の島原の乱で経験した鉄砲の有効性に脅威を感じたことが、鉄砲の規制強化に影響を及ぼしたとも言われています。
そのため既存の火縄銃をいかに使いこなすかという技術が発展し、様々な鉄砲術の流派が誕生しています。
この様な背景から、当時の日本人に銃床を付ける発想や技術が無かったわけではなく、銃の性能を向上できない社会体制があったためと考えられます。